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心をゼロにする旅〜青荷温泉〜

贅沢できらびやかな旅は、お腹いっぱい。むしろ引き算の旅をすると、心がすっきりゼロになる。
そんな旅をお望みの人におすすめしたいのが冬の青荷温泉だ。

いわゆる、ランプの宿である。
いまどき、電波が届かないという僻地である。
本当のところをいえば、電線がないわけではなくて、容量がものすごく少なくて微弱ゆえ、冷蔵庫や冷凍庫、フロント周り、共同トイレなど必要最小限のところに電気を使えばそれでいっぱいいっぱいなのだという。
電気は止まることもあって、そうなると自家発電に切り替えるが、自家発電ではそんなにもたないらしい。

「テレビも無え、電気も無え、スマホはまったく通じねえ」
私の頭の中では、吉幾三の『俺ら東京さ行くだ』の音楽がリフレインしていた。

とにかく暗いし、スマホは圏外。
だけど、トイレはウォッシュレットで便座も温かい。「健六の湯」は鍵付きロッカーで、トイレもある(ウォッシュレット)。そう考えると、案外快適ではあるんだけどね。

「よぐきたねし」。青森の方言が書かれたマグカップでコーヒーを飲む。
時折聞こえる戸をバンとあけるような音は、屋根から雪が落ちる音。庇から氷柱(つらら)が下がり、細い枝にもこんもりと雪が積もる。音がない。静謐な世界とはこういうことをいうのだろうか。
しんと静まり返った空間に、洗い物をする音、従業員の笑い声だけが響く。

この宿では、「日常」がいかに異常だったかに気づく。
まず、無意識にスマホを開こうとしてしまう自分の行動の愚かさに気づく。
ここは電波が飛んでいない。客室には電源コンセントすら無いのだから、強制的に脱デジタル。スマホ命の現代病にいかに毒されているかを実感する。

デジタルに囲まれた生活のなかで、本当に必要な情報ってどれくらいあるんだろう。
不要な情報の渦の中で溺れかけている。いやすでに溺れているのではあるまいか。

ランプの灯りは豆球(5ワット)程度。夜は月明かりの方が明るいくらいで、持っていった本も無用の長物。

ランプには5分芯(1.4センチ)と8分芯(2.3センチ)のものがあって、小さい方は部屋や街灯に。18時間くらいもつ。大きい方は広間やロビー用で24時間くらいもつ。だから広間は2日に1回の交換でいい。
ランプはつまみを調節すれば炎の大きさを調節できるが、炎を大きくしてしまうと朝までもたない。

ランプ係の笹村文明さんは風呂掃除やら何やら雑用をこなしつつ、朝になるとランプを回収して、次の客がやってくるチェックイン14時前までにランプのメンテナンスをして、灯りをともし、客室に届ける。ここに来た年に元のランプ係の人がやめて、かれこれ5年が経過した。それからずっとランプと格闘している。

モップの柄を利用した棒1本に、ランプ9個を引っ掛ける。ガラス瓶とガラス瓶がぶつかってガラガラと音を立てる。回収するときには11個をぶらさげて帰ってくる。

燃料は灯油だから火事になることはないけれど、
よくあるトラブルはお客さんがランプにぶつかって、4本の爪がずれてしまい、ガラスはまっくろけ。天井も煤だらけになるという話。うわあ、大変だ。

私もランプに頭をぶつけてしまったので、まあまあよくあるトラブルなんだろう。

ランプ係の仕事は爪が欠ければ修理し、オイル漏れしていないか確認する。何かの拍子にガラス壺の中に火が入れば全体がドロドロになって使い物にならなくなったりして、結構大変な仕事だ。

ここは湯治場だから、客室よりも温泉に入って過ごす人が多い。早速、露天風呂へと向かった。混浴はハードルが高いが、男女別の脱衣所もあるし、4〜5年ほど前にスタートした湯浴み着も300円で貸し出しがある(2300円払い、2000円が返却される)。

源泉温度43.5度の単純泉は肌にやわらかく、ずっと入っていられる。おそらくは湯船では38度か39度、ほんのり温かい。むしろ冬は出るのに勇気がいるくらい。熱い湯に浸かりたくなって隣の「滝見の湯」へ。こちらは分析書では47.5度。先程より熱いシャッキリした湯で全身が温まった。

昼のランチ提供もある。宿泊者は1000円追加すればそば、うどん、イガめし、山菜丼のいずれかが13時30分まで利用できる。周辺になにもないどん詰まりの場所だから、昼食提供はありがたい。

客室の青いファイルに入った「ご案内」には石油ストーブの使い方や朝ごはんの卵とじの食べ方が書いてあった。
「ランプに絶対さわらないように」「石油ストーブは寝るときに消す」。当たり前だが、石油ストーブに慣れていない人も多い昨今だから、これもまた異文化体験みたいなもの。

あと、「窓は凍るので換気のため廊下側の扉を少しあけておくよう」注意があった。

夕食会場の大広間にはランプが20個くらい吊り下げられてはいるものの、煌々とした灯りを見慣れている現代人にはかなり暗く感じた。夕食は山菜のおひたし、イワナの塩焼き、サーモンサラダ、白菜の漬物、アミタケの揚げ浸し、イカボール、猪鍋(野菜は春菊やネギ、舞茸)、フキの酢漬けなど。

一応料理は見えるけれど、鍋なんてほとんど闇鍋のノリ。細かいことは気にしなくてよくなる。化粧崩れもみえないから、女性にはありがたいかもしれない。

露天風呂へ行く道すがら、懐中電灯で足元を照らしながら歩く女性がいた。「かなり暗いと聞いていたから持参したの」。部屋で石油ストーブを消したり、夜道を歩いたり、鍵をかけたりするのにたしかに懐中電灯が役に立つ。

ふとんは自分で敷く。とにかく何もやることがないので、体中のストレッチをして、22時前にはやることがなくなったのでそのまま寝てしまった。

いつもと違う時間の流れと
いつもと違う過ごし方。
2,3日も過ごせば、忘れていた大事なものが取り戻せそうな気がした。